植物的思考①

以前、雑草と呼ばれる植物の栽培を試みたことがある。雑草は弱いから、強い植物のいない不安定な場所に生きる。

道端に生えている雑草のタネをとってきて、鉢に蒔いた。(雑草という呼び方はあんまりしたくないけど、わかりやすいようにここではあえて雑草。)

たくさんたくさん蒔いたのに芽が出たのはほんの僅かで、芽の大きさもバラバラで、どういうことなのかよくわからなかった。

野菜のタネは、蒔いたら蒔いた数だけの芽がほぼ同時にほぼ同じ大きさで顔を覗かせたから、植物ってそういうもんだと思っていた。

不思議に思って調べたところ

「あなたは光を感じたら芽を出しなさい。」

「あなたは25度になったら芽を出してね。」

「あなたは水を受け取ったら芽を出すように。」

「あなたは冬の寒さを感じた後に来るあたたかい日に芽を出すようにね。」

そんなふうに、同じ種類の雑草でも一つ一つのタネがそれぞれちがった時に芽を出すよう、条件が組み込まれているのだということがわかった。

たまたま辿り着き、根を下ろした先がどんな状況でも、その種類の雑草が生き残っていけるように。

だから、水を撒いて陽に当てただけでは、僅かしか発芽しなかったみたい。

弱いからこそ作戦が巧み。したたかでかっこいい。

(本で調べたのか、植物園の講習で教えてもらったのか忘れてしまったので、不確かな知識ではあるのだけど、これを知って衝撃を受けて雑草のことをより大好きになったので、たぶんだいたい合ってると思う。)

自分はひねくれている。

集団行動が苦手。面白いと話題の映画が面白いと感じられなかったり(それどころか怒りを感じてしまったり)、教えられたことを素直に受け止められなかったり(なぜなのかを根本から考えたがる)。

なんでみんなはあんなに喜んでいるのに、私は一緒に喜べないのか。

うん、

人間も雑草と同じなのかもしれない。

ちがう条件を持っていることを自覚していないけど組み込まれた条件を持っている。

人類として大きく捉えて、どんな状況になっても全てが滅びてしまわないように、捻くれたやつもつくっておいた。

みんなそれぞれ持った条件が違うから、感覚も考え方も好き嫌いも一緒じゃない。姿形は人間として一緒でも。

だから合わなくて当然。わかり合えなくて当然。わかり合えたときは最高、奇跡。そんな感じなのかもしれない。

雑草も人類も、弱いから作戦が巧み。したたかで、かっこいい。

分かり合えた時の喜びを大切にして、分かり合えない相手や捻くれた自分も、「あぁ、生存戦略ね。」と、面白がって愛おしみたい。

YUKA

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